スモーキンファッキン?

「ぼやコラ」2005年7月6日の投稿。喫煙者を取り巻く環境はますますファッショ化しつつあり、最近ではタバコ一箱¥1,000論まででる始末。そんでもって当の筆者は脳梗塞を喰らって倒れ、脳外科医のお達しにより現在断煙の憂き目を得ている。しかし、I LOVE YANI&ニコチン・マイ・ラヴ。発想の友としてタバコを讃える精神はいまだ衰えておらず、引き続き喫煙者擁護論を訴えてゆくつもりだ。が、自分が吸えなくなっちまっただけに、いまいち矛先は鈍化している。

煙草のパッケージは酒やワインのラベル同様、ひとつの「文化」の媒体だ。

警告
▲がっ、合点承知のうえの狼藉でやす。

 煙草のパッケージが、オバハンのキーキー声のようにけたたましく喚き立てるようになった。しかしニコ中愛煙家にとっては、今更ここに注意されたってどうしようもないのである。そんでまた喫煙者は、煙草の広告があったとしても、もはやそれを見る必要はないのである。ただ「いつものやつ」を買うのみなのであるから。嫌煙派の皆さんは、にっくきクソ煙草など手にすることもないだろうが、煙草のパッケージは酒やワインのラベル同様、ひとつの「文化」なのである。大きな注意表示の効果はさておき、せめて「デザイン」する余地を認めるべきだと思うのだ。


 われわれの世代のデザイナーにとって、煙草のパッケージはレコードジャケットとともに、目を養うに値いしまた表現することに憧れた重要な媒体であったのだ。歴史を重ねてきたその表現文化を、広く議論することもなく簡単に汚してしまうのは、軍国主義時代の検閲に等しい非文化的ヒステリックな行為だと、少々の憤りを感じる。


 それでも煙草は自由に売られていて、いまだ重要な税源になっていることは事実である。健康に害を及ぼすことが科学的に解明されてきた今、大事なことは、『新たな喫煙者をひとりも発生させない』ことだと思うのだ。法律上、煙草を吸ったことのないはずの年齢で誕生年に線を引き、それ以後の誕生年の喫煙者は厳罰に処す。そうすれば加齢とともに喫煙者は死んで減少し、やがてゼロになる。煙草関連農業・企業・依存財源は喫煙人口の減少とともに緩やかに業態を変換してゆき、そして数十年後、美しいパッケージだけが博物館に並ぶ。


 受動喫煙を拒否する声が大きい。しかし、走るクルマが振り撒く排気ガスはやむなく受動しているではないか。規模からいって、大量に走るクルマのそれは煙草の比ではない。地球規模の環境に対してもだ。金持ち一人が乗って走る、大排気量高級スポーツカーのボディに「注意書き」大書を義務づけようとなぜしない? そんな絵を想像するに、なんとオトナ気ないことだと思わないだろうか? 煙草の箱も同じなのである。


 この春、在住自治体の条令が新たに発令され、最寄り駅を中心にわたしの住戸の至近まで「喫煙禁止区域」となった。常時携帯している灰皿も虚しい。駅から自宅の喫煙部屋まで脂汗をかきながら必死に我慢して歩くわたしの横を、ギンギン冷房したスポーツカーがハイオクの臭いを撒き散らしながら追い抜いてゆく。